マス(大衆)・デモクラシーは花盛り   (2002.10.25)                                  

 「いまや、民主主義も金次第、なり振りかまわず当選めざし、胸にバッチを付けたなら、ひたすら財を築きましょう。
  貯まった財はマス・メディアへ。  立ち振る舞いや宣伝が更なる政治の力を引き出します。」

 理性的人間よりも、政治操作や宣伝に翻弄されやすい感情的・本能的人間が増加し、これらをとりこみ、マスコミが政治を操り、政治がマスコミを操る。
 今こそ、まさに大衆デモクラシーの花盛り。
 戦後教育のあだ花と嘆く人も少なくない。
 人は、偶然に生を受け、親から授かる「気質」と、「育みの環境」で育つもの。
 衣食住のもといの下に、世の習いを多くの先達に学び、それをわが身の血肉とし、社会の存在に目覚めていく。
 やがて見つけた自分の「社会」、そこに夢や理想を見いだし、将来に向け努力を積む。
 だから一人ひとりの「社会」に違いがでるのも自明の理。
 社会を計る物差だって色々あって当たり前。
 「個人尺」に「家族尺」、地域・環境尺」に「地球尺」、どんな物差しだって良いけれど、「地球尺」で生きる人だけが桧舞台に踊り出るとは限らない。
 摩訶不思議。
 そこが大衆デモクラシーたる由縁である。
 桧舞台に踊り出るには、「気質」と「育みの環境」のどこかに多少の「歪み」も必要だ。
 生に感謝し、平穏に、健康に、清く正しく生涯を過ごす人、生を悔やみ、波乱万丈、諸悪の限りを尽くし、非業の最期を遂げる人、すべては、個々の「気質」や「育みの環境」の「歪み」にもとづく結果である。
 詰る所、この「歪み」が大衆社会では成功の鍵となる。
 あらゆる人がいてこそ「社会」であり、大衆社会に陥る理由もここにある。
 だが大衆迎合のない「歪み」は良しとしても、迎合せざるを得ない「歪み」だけは戴けない。
 舞台の上の虚像に振舞わされ、世に暗雲が垂れこめることだってあるかも知れない。
 けれども悪業の猛火のなかで生きぬく草木もあるように、決して正しい道が無くなることはないはずだ。
 良貨が悪貨を駆逐することだって、あっても良かろう。
 これも政事の原点。この世は所詮、人の世。
 真面な人がマスコミ相手にいくら上手に踊ってみても、バッチをつけた人の真似は無理である。
 それなら、ここは一芝居、良貨を増やす立ち振る舞い方でも学びましょう。


戻る