患者情報の行方 (2001. 2)                                               

 時は西暦二一〇〇年一月、郊外のとある瀟洒な住宅の一室で、一人の男が目覚めとともに、おもむろにベッド上に起きあがった。
 年の頃は三十位であろうか。
 この男の目覚めを待ち受けていたかのごとく、紺色のワンピ−スを身にまとい、年の頃は二十歳位、無表情だが、目鼻立ちの整った女性が洗面用のお湯と、全自動の歯ブラシを運んでいく。
 ベッドの上で洗面を終えると、見計らっていたかのように、朝食が運ばれた。
 男はそれを食べ終えると、一息つきベッドから起き上がった。
 すると、ワンピースも顔かたちも瓜二つ、でも何か雰囲気の違う女性が、糊のよく効いたシャツと上品なスーツを運んできた。
 男は身繕いを手短に済ませると、部屋を出、ガレージの車のシートに身を沈めた。
 道に埋め込まれた光ファーバーと連結したセンサーに誘導され、やがて車は、大きな建物の地下にある専用スペースに停車した。
 男は車を降りると、室内用のカートに乗り、最上階のオフィスに向かった。
 男の名は、森田智行、三十一才。国家医療情報管理部のエリートである。
 彼は、今では、すっかり数少なくなった旧人類の一人である。
 現在、この国の政治、経済の中枢は、ほぼ全員がクローン人類の出身者で占められている。
 これもここ数十年の間、人口統制と階層的社会構造の形成を目的に生産されたきた複製(クローン)人間が、その増加から階層的職種別単一化社会の担い手にとってかわったことと無関係では無い。
 いずれにせよ、旧人類である彼が現代の医療情報管理部門のトップであることだけは紛れも無い事実である。
 一〇〇年前までは地球上に存在しなかったクローン人類も、或る事件をきっかけとして増えはじめ、次第に集団形成を背景に世を制してきたと云われている。
 実は、そのきっかけとなった事件に、他ならぬ森田の祖父、森田幸三が深い関わりをもっていた。
 西暦二〇一〇年、当時、祖父は患者のために昼夜を問わず、往診や診察で駆け回る評判の町医者だった。
 当時の少子化や情報化の政策を憂い、あるいは先の社会を予見してか、身体情報のデータベース化には一貫して反対し、一方では科学者の倫理教育にも精力的な活動を行っていた。
 そんな祖父がある時、忽然と姿を消した。
 当時のマスコミは大々的に事件を取り上げ、警察は誘拐事件と失踪の両面から捜査を続けた。
 しかし真相は分らずじまいであった。
 この事件に関連した議論を契機に、使わなくても良いところまで情報技術が持ちこまれ、患者の健康情報や遺伝子を含む身体情報までもが背番号制で国家管理されはじめた。
 この情報の盗み見から、生殖技術や遺伝子工学の技術にとりつかれた科学者達が、手段を選ばず種々様々な遺伝子を集め始め、トランスジェニック人間の作成に狂奔し、中には、複製人間作成を禁じる法をかい潜ってまで、複製人間の作製に手を出す科学者が出現した。
 その内に同じ顔や背格好をした人間が徐々に増え、これが現代の始まりとなった。
 森田は偶然にも旧人類が淘汰された史実の中に、この事件の記録を発見した。
 それには、当時の祖父の活動を封じるために、或る秘密結社が祖父を粛清した経過が生々しく綴られていた。
 いつものように森田はオフィスに入ると、デスク上のコンピューターに向かい、今では殆ど使わなくなったキーボードを使い作業を始めた。
 その直後、突然に建物全体に響き渡る警報が鳴り始めた。
 森田は、驚いた風も無く作業を続けている。今日、森田は祖父と同じ血を意識し、引返すことのできない決断を下していたのだ。
 まさにこの社会構造を覆す企てであり、それは地球上の全てのコンピューターを瞬時に回復不能な状態に陥れるビールスの移植であった。
 初期の作業段階で危険を感知した中央管理コンピューターは、森田のコンピューターにシャットダウンをかけ、同時に警報を鳴らした。
 しかし、このような事態の発生を予測していた彼は、あらかじめコンピューターの配線を変更し、電源を確保していたのである。
 作業は計画どおり続行され、やがて警報も止み、全ての音が消えた。
 ほんのかすかな明かりを残し暗闇と静寂が辺り一面を覆った。彼はそのなかで、次ぎに起こる事態を想像し、ひたすら冷静を保とうとしていた。
 いまや何の後悔もなかった。
 扉の向こうから、人の足音が次第に大きく聞こえてくる。
 どうもこの部屋に向かって駆けて来ているらしい。
 部屋の前で足音が消えたと思った瞬間、扉は激しく打ち破られ、同じ顔、同じ体格の国家警察官が数人突入し彼を取り囲んだ。
 彼らは、考えることを抑えられ、服従に徹し、肉体は全体が筋骨隆々として山のごとく大きく、とてつもない戦闘力を秘めている。
 その彼らの内の一人が、突然、太い腕で彼の首筋をつかみ頭上まで持ち上げ、握りつぶすように頚をへし折った。
 しだいに記憶が薄れていく脳裡のなかで、森田は記録にあった祖父の最期の描写を想い起していた。

 こんなSF(科学的フィクション)話は、ここまでですが、生殖技術の完成はすぐそこまで来ています。
 2010年の近未来社会を想定して製作された、アーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「シックス・デイ」も、人間複製を禁じる法を犯して、際限ない欲望と、暴走し始めた科学が「禁断の扉」を開けた顛末を描いています。
 こういった「禁断の扉」へ誘うのが、身体的情報を蓄積したデータベースです。
 そして、この解析や盗用が犯罪を誘発しかねません。
 情報生物情報科学にコンピューター利用は必須です。
 だからこそ、生命技術の背景となる情報技術の応用には一層の制限が求められます。
 二一世紀に生きる今、国民一人一人が、個人情報、とくに遺伝子情報も統合して保存されるデータベースや、生命科学をどの様に取り扱うべきか、しっかりと議論しておく必要があります。
 法律や倫理だけでは規制できないことも視野におき、私達の子孫が、後で困らないためのルール確立は緊急性のある喫緊の問題なのです。

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